人間というものは、明るいところにいれば幸せになれるほど、単純な生き物ではない。
日光や照明の明るさだけではない。沢山の人に囲まれた華やかな暮らし、快楽を自由に買える資産なども、人生を物理的に明るくする。そういう明るさを持たぬ人間の目には、それらが幸せの形にみえることは往々にしてある。
しかし、人間としての尊厳ギリギリからここまできた半年を顧みて思うんだ。上記のように物理的に明るく華やかな人生の中に、本当の幸せを見出すことは困難であると。むしろ有害なこともある。眩しすぎて、本人でさえ、物事の本質が見えなくなってしまうから。
人間は、真昼にこそ迷うんだよ。
正確に言うならば。強い光に幻惑され、物事の輪郭を見ようとしなかった人間は、迷い多き人生を生きることになる。
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ネット上のおつきあいメインだとはいえ、いわゆる華やか系有名人の方々と、私はお付き合いをさせてもらっている。
その業界で誰も知らない人はいないだろうと思われる彼らが、パソコン前に鎮座してる無名の私に聞くんだよ。「幸せって何なんでしょうか」「寂しい寂しい寂しい。どうしたらいいんでしょうか」と。
私は彼らのことをよく知ってても、彼らは私のことをよく知らない。だから、昨年出版社の講演会で明かした私の生い立ち動画を送るんだ、いつも。手前味噌ながら、「よくぞあの環境から上り詰めましたね」と言われることが多い。そのせいか、業界のキラ星と言っていい彼らが、「この人なら何か、幸せになる方法を体得しているはずだ」と踏んで、私にそれとなく助言を求めておいでになる。
彼らに共通しているのが、眩しさに幻惑されて自分を見失っていることだ。もっと正確に言うなら、自分はどうすれば幸せになれる性質を持ってるのかを、正しく自己分析しようとせぬまま生きてきた感があることだ。
そりゃ、そうかもしれない。そんなことを考え詰めずとも、周りがチヤホヤと世話を焼いてくれる。周囲は常に明るくて華やか。人生の成功、これぞ栄華......なのかも知れない。
でも、何らかのきっかけで気づくんだ。これって幸せなんだろうか。幸せってどこに落ちてるんだろうかって。
なまじっか周囲に褒められて生きてきてるから、自分が本当は何を欲しているのか、考えなくても暮らせてるんだよ。周囲に求められるままに生きてくことが、幸せの一形態になっている人たちなんだ。それでうまくいっている期間が長い人ほど、自分を幸せにする術を持たない。育ててこなかったから当たり前だよね。
私、思うんだよ。
人間は所詮ひとりで生きてるんだよ。仲の良い友人、穏やかな家族に囲まれて暮らしてても、自分に100%寄り添ってくれる人間はいないんだ。ひとは全て、それぞれ独自のベクトルで生きている。角度が近い人はいても、完全に並行移動してるベクトルは、まずないんだ。だから、友人ベクトル家族ベクトルと自分ベクトルの間には、必ず隙間があるもんだ。ひとりで進まなきゃいけない時間の方が多い。
人生の真昼にいた人は、その事実を体得する経験がない。ない、みたいだ。だから、太陽が傾き始めた時に大慌てするんじゃないかな。自分の幸せって、他人や環境がたまたま与えてくれたものに過ぎなかったんじゃないかと。だから、幸せの自己発電をするすべを、自分はどうやら持ってないらしいと。
んで、ひとりでご機嫌そうに暮らしてるように見える私に、「どうしたら自分で自分を幸せにできるんでしょう」と、お声をかけて来られるんだと思う。
そのたびに、いつも心の中でつぶやくんだ。
You cannnot be what you're not. って。他人の真似をしても、ひとは幸せになれないんだよ。自分を幸せにするものは、誰にとってもオーダーメイドの一点ものなんだ。それを人生の早い段階で見つけられた人が、長い目で見て人生を幸せに生きられるんだと思うよ。
それを見つけるまでは、結構苦難の連続だったりするんだけどね。泥まみれになって転げまわり、「これだ!」ってものをつかみ取り、そして自分の足で立ち上がる。そんな人が持つ幸せの核は、確かだ。確かだけど、汎用性はないんだな。私はコレで幸せだけど、あなたを幸せにするものでは、ないんじゃないかな。
だから、成功者と言われる人の中には、禅にハマっちゃったりする人が出るんだろう。全てを削ぎ落して自分と真剣に対話をし続ける。その中で何が見えてくるかを追い求める。それが禅の心、だと私は思っている。突然引退したり、社会運動やボランティアに傾倒する人たちも、ある種そんな部分があるのかも。目の前にある成功を捨ててでも、自分を幸せにしてくれるものが何なのかを知りたい。そう自らに問い続ける。そして、運よく見出していった人たちなんだと思う。禅にハマる人達との共通項は、真摯な自己対話。
有名な人ほど。有能な人ほど。名誉やお金になりそうな人ほど。たくさんの人たちが寄ってたかって、生き方のレールを作ってしまい、そこから外れた人生を生きられなくしてしまうんだよね。レールを走ってる本人は、多分途中で気づく。「これは自分の心が本当に求めている生き方じゃない」と。当然、そこには幸せなどない。自分を幸せにするものは、自分にしか分からんのよ。
人間、自分のことでさえよく分からんことが多いのにさ。他人のことなんて、分からないの当然でしょ?よく分かってない人から押し付けられる幸せな成功者の像、本当に自分を幸せにするのかな。
私みたいな規格外の人間は、ひとから与えられた幸せ像に乗っかるのは苦手なんだ。レールを敷いてくれる人がいなかったから、強制オーダーメイドなんだ、私の人生って。だからなおさら、私のマネをしても幸せにならんの。
だから、いわゆる有名人の方々だけでなく、幸せ迷子になっておられる一般のフォロワーさんにも言うんだけどね。
幸せになるコツは、人にコツを求めないことなんだ。オーダーメイドの幸せを作る気概を持つこと。他人とのかかわりの中で、そして孤独に己を見つめ続けながら。後者の時間の方が、圧倒的に長い。だから、幸せになるプロセスというのは、全然楽しくない。辛くてシビアな作業だと思う。特に、私のマネをしてはいけない。これは、何もないところから必死に材料を見つけて組み立てた幸せの形。誰にでも勧められる生き方じゃないからね。
私は、人間は所詮は一人で生きる存在だと思ってる。友人や家族では埋めきれない孤独は、自ら引きうけて処する。それが大人だと考えて生きてきた。元々、華やかなのが苦手だってこともあるんだけど、ムリに人とつるむの、好きじゃないんだ。
だから案の定、私の幸福論に異を唱える人たちもいる。例えば、こんな感じ。
「いや、違う!私は2人で幸せになるタイプの人間なの!」と反論を食らうこともあるんだよ。でもその人、ひとを信じすぎて全体重を預けるから、やがては相手が受け止めかねて去っていくって、自分で言ってるんだ。その矛盾に、まだ気づかないでいる。2人3脚で一生走り続けられる相手なんて、いないんだよ。なのに、相手の足を自分の足に括り付けて、自分の思う方向に走り続けようとしたら、そりゃ途中で「もう止めてくれ」ってなるわさ。
こういう事も起きるから、「幸せになりたい」と言ってこられる方々に、私は本音をあんまり言わないんだ。私より年上の成功者は、色んなものを背負い過ぎてて、今更それらをすべて手放して、自分のための幸せ探しの旅に出るわけにいかないからね。
私が本音で幸せを語るとしたら、私よりもずっと若い人にだけ。家族を背負う前の、比較的身軽な若い人にだけ。それでも、幼少期から人生のレールをガッツリ敷かれて生きてきた人には、老若男女問わず、私の幸福論は刺さらない。刺さったとしても、きっと身動きができない。
でも。
もし、刺さった矢をきっかけに、真昼のように明るい自分の人生をじっと見つめる目を持てたなら。将来の自分を幸せにできる第一歩になるのかもしれないね。人間、いつまでも真昼の太陽の元に立っていられるわけじゃないからさ。何も見えないくらい眩しい場所にいるうちに、自分の心と対話する機会を持つといいね。
真昼に立つその人達が、ほんの少し目を細めて、自分の輪郭を見つける日を、私は待っている。