「親が敷いたレールの上を走っている人生なんて」って言葉を聞くたびに思う。君は、レールを敷いてくれる人間がいる幸せに気づいてない。それがどれだけきつくても。たとえ歪んだものであっても。君は一定の庇護の元で生きている。
そして、レールを逸脱して生きている人間の自由を羨ましく思うんだろう。確かにな。相手のいいところばかりが見えるのは、お互い様だ。私には、答えがある人生がうらやましくてならないもの。
私には人生の箱がなかった。私の自由は、箱やレールから逸脱して得た自由ではない。歩く道つまり生き方のモデルケースが全くなかったから、自分で道を作るところから始めた。周囲からは破天荒に見えてたかもしれない。その破天荒さをバカと見るか自由と見るか。周囲がどう評価しようと、自分で道を拓かないと生きていけない。周囲の評価を気にしている余裕がない。
レールも箱も持たない人間には自由があるが、拠り所や生き方のモデルがないから孤独も抱えている。生き方の正解もない。その逆の人生を生きている人には、自由がなくて苦しい代わりに孤独はない。
どちらがよいかは、その人の耐性次第。
いま入院中でヒマしまくってるせいもあろうが、箱の中にいる幸せを感じている人を少し羨ましく思う。自由を是として生きてきた人間から、身体的な自由を奪われたら、そこに残るのは孤独だけなんだよ。切実に孤独だけ。
行動するからこそ自由はが活きる。身体の一部とはいえ、自分が一番やりたいことができるかどうかの瀬戸際にあって、私は孤独と対峙し、この生き方に誇りを持つために切実にほしい自由を取り戻すべく、今日も心の中で孤独を必死に飼い慣らしながら、ただ歩く。ひたすら歩く。
私がやりたいことは電車に乗れないと叶わない。ひとりで乗れないと叶わない。ソロ活元女子としては、誰かの付き添いつきで生きる人生は私の人生ではない。自分の人生を全うするだけの体力がほしい。
私は、自分の人生を言葉に落として生きている。何があっても、言葉に変換できたら先に進める。子供の頃からそうしてきた。言葉は武器であり癒しでもあり。歩行自主リハビリの足を止め、心を文字に落とし込んでいる今。もうすぐ心の霧が晴れる。そろそろ歩こう。
<本日の記録>
リハビリ内容
PT
平行棒約10往復(完全にバーは持たず)座ってる時の重心修正(からだが反りすぎているのでお尻の骨の真上に重心を)大きなボールの上に両足をのせて、寝ながら前後・左右に10回ずつ 横向きに寝て足をあげ、がに股にして上げ下げ 二本づえ100メートル(10メートルを十秒で歩けないと横断歩道がわたり着れない。現在18秒)
OT
固い筋肉をほぐす(主に左臀部の痛み)ゴムに足をかけて踏み込む ゴムを膝で結んで膝を立てて横に足を倒す(ここまあでは左右差ほぼなし)同じ位置で膝は立てずに足を外側へ(左が少し弱いが筋トレで十分回復するレベル)ボールを膝に挟んで潰す 歩きながら骨盤の揺れをチェック(左の骨盤が若干外へ流れてる)
自主トレ
歩行器(アルコー)は5~10分に分け、痛む部分をかばいながら様子見
体調変化
夕食後は右臀部の痛みが強くなったので夜のウオーキングは中止。完全に状態を起こして歩ける。歩き続けているうちに腰痛が軽くなるのは血流改善のせいではないかとの指摘
その他
前の病院で身体の動かし方をちゃんと教わってないだけで、筋力自体はそんなに落ちてないとのこと。なんとかせめて両手杖で外出できるレベルにならんものか。昨夜から今日にかけて寝るときはコルセットをはずしたせいか、起きたときに左臀部に強い痛み。様子見とのこと。
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